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LIVE REPORT

Japanese

ASIAN KUNG-FU GENERATION

Skream! マガジン 2022年01月号掲載

2021.11.22 @Zepp Tokyo

Writer 石角 友香 Photo by 山川哲矢

バンドの25周年特設サイトでも後藤正文(Vo/Gt)はデビュー10周年のコンサート(横浜スタジアム)で"僕たちを、僕の音楽を見つけてくれてありがとう"と言ったことを再度、言いたいと記していた。結成25周年記念の今回のツアーのセミ・ファイナルであるこの日は、コロナ禍の中のツアーを経てきた実感も伴ったのか、"現場で何のために命を燃やすべきなのかなって。長い音楽の歴史は自分たちぐらいじゃ絶えないけどって思う反面、みんなで持ち寄って未来の世代に繋いでいけるか、そういうところに命を燃やしていきたい"と語り、新作も鋭意進行中であることも含め、"アジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)、やめへんで、ってことです"と珍しく明言していた。感謝だけじゃない、何周か回ってきたバンドだからこそ言える現在の意志。2時間20分に横溢していた頼もしさの正体はそれだったんじゃないだろうか。

登場SEもなく薄暗いステージに現れた4人への拍手の大きさに、早くも胸がいっぱいになるなか、伊地知 潔のドラムからセッション風に始まるオープニングは、まるでZepp Tokyoの箱バンの如し。イントロの喜多建介のギターが鳴った瞬間、そこここで"これだ!"とばかりに拳を上げる人たちを見て、またこみ上げるものが。それぐらい「フラッシュバック」の"THEバンド!"感が冒頭から迫る。スピーディに8ビートが「未来の破片」に繋がっていき、4人だけのシンプルで豊かな音像を全身で受け止めた。"此処で光る君の破片"と叫ぶゴッチ(後藤)の声もよく出ている。間髪入れず「サイレン」に移り、何も足さず何も引かないそもそも完成していたアレンジの完成度を実感させる。やはりアジカンのアンサンブルは日本のオルタナティヴ・ロックの発明だと再認識。アルバム『ソルファ』はバンドの代名詞であり続けるだろうが、その何者かになろうと叫ぶ有り様は今もまだ生々しい。

伊地知のドラミングや山田貴洋(Ba/Vo)の洋楽的なスケール感のあるフレージング、喜多のコーラス――磨かれてきたとはいえ、初期から卓越したソングライトを実現していたことを実感する「無限グライダー」から、歌詞に"無限"が登場する「ノーネーム」に繋げていくのも意味を感じるが、それ以上に後半、ゴッチが繰り返すそのワードと歌唱にはゴスペル的な響きが。ひとりの部屋で"無限"を願う少年を思わせながら、今の彼はその少年を内在させながら、どこかのそんな少年を見守ってもいる、そんなイメージだ。4人の音の抜き差しやリズム・チェンジで徐々に心の綾を積み重ねていく、これもまたアジカンの発明のひとつであろう「ブラックアウト」の丁寧なプレイ。喜多とゴッチのリフの往復に湧く「ブルートレイン」。何度も観て、聴いてきたつもりだが、同じ音色もプレイもないのだ。この日はサポート・メンバーがいないぶん、4人だけの抜き差しがより鮮明に聴こえてきた。

最初のMCでゴッチは25周年記念ライヴに足を運んでくれたファンにお礼を述べ、配信に関しては"未だカメラに魂を抜かれているような気がする"と言ってメンバーを苦笑させる。そして"パーフェクトじゃない4人だけど、この4人が集まるとなんとも言えないマジックが起きる。それはみんなが誰の真似もしないで楽しむことで起きるんだと思う"と話し、「十二進法の夕景」のタイトルコールをし、曲を慈しむように演奏する。

そこまでの繊細な音の積み重ねから、グッと太いギター・サウンドにスイッチした「センスレス」で、アンサンブルのパースも広くなった印象だ。ローギアで淡々と爆走する車、もしくは汽車のようなロックンロールから自然な繋ぎで「君という花」に突入。フロアは一斉にジャンプする。スーツの人もいれば、10代後半もいるし、性別も半々ぐらいに見える。日本のロック・バンドの観客でも有数の多様性じゃなかろうか。しかもZepp Tokyoというキャパシティでこれなのだ。聴き続けられているバンドの証だ。四つ打ちもコードワークもリフも、いったいどれだけのバンドに影響を与えただろう。「君という花」で自ずとアッパーになった部分もあるだろうが、続く「嘘とワンダーランド」で喜多がメイン・ヴォーカルに入りやすいセットリストだったようにも思う。ちなみに1A(※1番のAメロ)でゴッチはドラム・セットの端に座っていた。

ここまでを前半としていたことはあとのMCでわかるのだが、冒頭の"未来の世代に繋いでいきたい"という発言からの「新世紀のラブソング」で、たしかに時代とともにゴッチのマインドセットが徐々に変化していくのが感じられる。語り調の歌や、伊地知のマシンライクな正確無比なハイハット・ワークなど、ヒップホップやトラック的な音楽をバンドで消化/吸収し、さらに研磨された演奏だ。それからゆったりしたBPMの「UCLA」にバトンが渡されていく。アウトロの音を掴むように、同じキーのイントロの「或る街の群青」で、いわゆるアジカン節なビートに戻るのもメリハリが効いていた。さらに音源よりオルガン的なサウンド・エフェクトのギターで新鮮さを醸す「踵で愛を打ち鳴らせ」。曲調は様々だが、ゴッチの"ヨナ抜き音階"の歌メロはアジカンがアジカンである所以だとつくづく思う。切なさや絶望、前向きさや希望という単純な二項対立に終始しない、ある種ドライな音階と言えるかもしれない。

唯一、ゴッチ以外の歌詞である「ソラニン」が、絵が浮かぶラヴ・ソングとして機能していることも、膨大なアーカイヴの中で光る理由だろう。そこからの近年の作品に顕著な、新しい大人としての生き方を反映した楽曲群が今回、非常に胸を打った。前半が何者かになろうともがく青年の逡巡を昇華した楽曲群だとしたら、後半、特に2010年代の『ランドマーク』以降、いわば震災以降、現在まで続く社会性を反映した楽曲群――「荒野を歩け」のスケートボードで疾走する少女、「スタンダード」の風変わりなまま仲間を増やしていく少女に対する視線は、リスナーも同じく年齢と共通体験を経てきたこともあるだろう。この何年かで、よりバンドのものになったように感じられた。そしてリリースされた当時、同じくZepp Tokyoでもっとラウドな音響で体験したのとは違い、今のほうが「Easter」がシリアスさでより刺さることも発見だった。

ゴッチのZepp Tokyoにまつわる強烈な思い出は、仕事と掛け持ちしていた時代に見たNUMBER GIRLの解散ライヴで、当時すでにメジャー契約していたART-SCHOOL木下理樹(Vo/Gt)の発言に、大いに焦燥感を募らせていたという正直な告白も。ただ、何者かになりたかった自分は若かったのだろうと回顧し、現在はバンドの制作に多く関わる彼は実感から、"そこに音楽の優劣なんてない"し、"もし何もかもなくなっても自分はメンバーがいれば「またシェルター(下北沢SHELTER)の昼の部からやれる。何回でもやり直せると思う」"と発言。作りたいから、やりたいから音楽をやる、そしてそれが可能だという確信を25年の中で掴んできたのだ。そこから"ただ、やるんだよ"と言わんばかりのおおらかな「迷子犬と雨のビート」、「今を生きて」の説得力は今回のセットリストならではだ。珍しく喜多と山田がドラム台に乗って伊地知を囲んで演奏するシーンも。

"ほんとにありがとう。ASIAN KUNG-FU GENERATIONでした"とゴッチが感謝を述べ、山田の図太いベースのフレーズが響くと、ラストは「遥か彼方」。素朴さはある。たしかに若い。でも、歌ってきたことの軸は不変だ。あまりにもストレートにベスト・オブ・ベスト選曲で組まれた本編22曲2時間。曲と演奏で牽引するライヴは体感、30分ぐらいだった。結成20周年時の緊張感に満ちたベスト選曲による前半と『ソルファ』完全再現の後半という、あの怒濤の重量感とは対照的に久しぶりのツアーを心底楽しんでいる4人がそこにいた。もちろん、全世界に配信するという"大きな窓"としての意義も十二分に満たしていたのではないだろうか。

アンコールではツアー後に集中してニュー・アルバムを詰めていくこと、『サーフ ブンガク カマクラ』の続編の曲は書けていること、そして3月に25周年ツアーの締めくくりとしてパシフィコ横浜でのライヴも発表。そして、演奏されたのは初期の発明とも言える「Re:Re:」と、すでに浸透している様子が実感できた「エンパシー」。いつでもアジカンは自分自身を通して時代を映す。四半世紀続いてきたバンドは少なくないだろう。だが、スタンスやサウンドを更新し続けるバンドは稀有だ。アルバムはきっと風通しがいいはず。そう確信した。

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