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INTERVIEW

Japanese

戸渡陽太

2016年06月号掲載

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1992年生まれのシンガー・ソングライター、戸渡陽太。焦燥と無垢を同時に感じさせる稀有な歌声で伝えられる、出口のない思い、理不尽、そして傷つくことによってむしろ人が持っている優しさの本質に触れていったり――彼自身、自分の感情と向き合い、放出するために始めた曲作りのプロセスが"自分になっていくことそのもの"、そんな作品になっている。バンド・シーンが引き続き活況を呈する中、ひとりで戦いに挑む気持ちも合わせて、このメジャー・デビュー・アルバム『I wanna be 戸渡陽太』と対峙してみてほしい。

-小・中学生のころはサッカー少年で、Jリーグ・チームの"サガン鳥栖"のジュニアユースに所属するほどだったそうですが、なぜ高校生になってから音楽を始めたんですか?

チームにはすごく上手な子が集まるので、ジュニアユースにいたときからなんとなく心の中で"プロになるのは無理だな"と思っている自分がいて。それで、高校に入って、結構、理不尽な上下関係があったので、結局それで辞めちゃったんです。ただ、音楽を聴くのは好きで、サッカーを辞めたときに曲を作りたいなと思ってギターを持ったのが最初ですね。

-サッカーを辞めても、もちろん高校には通ってたんですよね?

でもサボるのもわりとOKな感じの、めちゃくちゃな高校で(笑)。不良漫画"ビー・バップ・ハイスクール"のモデルになったような高校でした。

-極端なんですね、"その道で生きていける奴ら"と"それ以外"。でも、戸渡さんはどっちにも入れなかった?

はい。サッカーのスポーツ推薦で入学したので、辞めてからはホントにやることがなくて。音楽を聴くことが好きだったので、CDショップに行って、いろんな音楽を聴くような生活をしてました。音楽は心の拠りどころ的な感じだったと思います。でも、その前からサッカーをやっててもつらいことの方が多かったので、その解消じゃないですけど、解放できる時間が唯一音楽を聴いてるときだったんです。

-今でも許せないって人がいたり?

いや、それはないですけど、つらい経験も結果的には自分の財産になっていて。そういう人もいるんだとか......学校も部活も社会の縮図だと思うんです。僕にはそういうことを学ぶのも必要だったというか、やっぱり曲作りにおいて、特に詞の方でそこから汲み取るものもあったりするのかなと思うので。

-学校以外で音楽が好きな友達はできましたか?

そっち側の友達と遊ぶのが楽しくなったんですよ。年上の方ばっかりですし、視野が広がるというか。だから高校生のころはライヴハウス界隈に出入りしてる人と遊ぶことが多くて、高校の友達とはあんまり遊んでないです(笑)。

-そういう人たちと出会うのと、オリジナル曲を作り始めるのとどっちが早かったんですか?

曲作りを始めた時期の方が早いです。バイトで初めてもらった給料でめっちゃ安いギターを買って。そのギターは曲を作りたくて買ったんです。で、曲を作っていたらバイト先の大学生の先輩に"曲を作ってるならライヴすればいいじゃん"って言われて。自分としてもやってみたかったので、"(出演の場を)紹介してください"とお願いしたんです。それでライヴハウスに出演したんですけど、最初のライヴがもうぐちゃぐちゃで(笑)。

-何曲くらいやったんですか?

4曲くらいでした。それまで人に曲を聴かせたことがなかったんです。もう、緊張しすぎて声は出ないし、人前で演奏するのってこんなに緊張するんだと思って。でもすごく悔しかったので、また出させてもらったんです。それ以降、コンスタントにライヴを重ねて、いろんなハコに出るようになっていきました。

-当時の戸渡さんにとって、曲を作ることはなんだったのでしょう。

メッセージの方が強かったですね。詞が先に浮かんできて、それをメロディに乗せてみたいと思ったのがきっかけだったんです。だから"曲を作りたい"と思って先にできたのも詞でした。自分でもわからないけど言いたいことがあるというか、それを見つけていく手段が曲を作るということだったんです。

-曲を書いて、自分の奥にある心情を見つけていく作業?

作曲って、自分でもわからないけどイライラするとか、悲しいとか切ないという感情に向き合うことじゃないですか? 鏡を見るような感じというか。"楽しい"っていう感覚とも違っていて、"解明していく"みたいな。でも結果、そういう作業が楽しくなっていったんですよね。

-思ってることをノートに走り書きするとか、10代のころは誰しもやることかと思いますが、それだけでは止まらなかった?

そうですね、それを曲にしてるってことは止まらなかったんだと思います。当時のノートを今も持ってますけど、ちょっと恥ずかしいですね(笑)。でも、当時の方が鋭い言葉を書いてるなと思って、今もそこからピックアップして入れることがあります。ただ、曲を作り始めたころは自己完結することが多かったんです。人に聴いてもらうっていうより、解明してそれで終わることを繰り返していって。ちょっと矛盾してますけど、それでもライヴするっていう。