Japanese
杏沙子
2020年07月号掲載
次世代ポップ・シンガー・ソングライター、杏沙子。耳にすっと入ってくるチャーミングな歌声で、キャッチーなメロディを歌う彼女が打ち出す2ndアルバムのタイトルは、"ノーメイク、ストーリー"。前作では小説や映画のようなフィクションを描いてきた彼女が、自身の素顔を曝け出して制作したという。そうしてできあがった本作には、初めて実際の恋愛をストレートに書いたものや、センチメンタルな気持ちを綴ったもの、心の奥で強く思っていた願いが表れているもの、怒りや諦めを孕んだクールなものなど、これまでの爽やかで元気な印象とはひと味違う想いを描いた曲が揃った。彼女はどうして今、"ノーメイク"を歌おうと思ったのか。作品作りに至るまでの道のりからじっくり聞かせてもらった。
-Skream!初登場ということで、杏沙子さんがどういうふうに音楽と出会ってきたのかというところからお聞きしていきますと、もともとは小さい頃から主に車の中で音楽に触れていたそうですね。
そうです。出身が鳥取県で、鳥取ってコンビニとか、どこに行くのにも車なんですけど、家族が歌や音楽が好きだったっていうのもあって、車の中では母がDJになって母の好きなJ-POPが流れてるっていう環境で育ったんですよ。なので、当たり前に"聴く"だけじゃなくて、"歌う"っていう行為が日常の中にありました。車だからできたんだろうなって。だから、車が原点ですね。
-お母様も杏沙子さんも一緒になって歌っていたんですか。
はい。母が、歌がすごく上手で。ハモりとかも母に教えてもらいました。
-素敵ですね。どういう音楽がよく流れていたんですか?
母が、松田聖子さんが大好きで"この曲はここがいいのよ~!"とか言いながら教えてくれて、あとドリカム(DREAMS COME TRUE)さんや、槇原敬之さんも大好きだったし、母が好きだったJ-POPど真ん中、歌謡曲から、そのとき流行っていた曲まで聴いてましたね。
-その松田聖子さんに多くの歌詞を提供していたのが松本 隆(ex-はっぴいえんど)さんで。杏沙子さんは松本さんからの影響を公言していらっしゃいますが、そういう曲を聴きながら歌詞にも意識が向いていったってことですか?
小学校低学年くらいのときはさすがに"この歌詞いいな"とまでは思えなくて、まず松田聖子さんの曲ごとに全然声が違うというか、その歌詞の人になりきって変わっていることに衝撃を受けて。こんなふうに歌声を曲ごとに変えられるのはすごいなっていうところから、"あ、この歌声は歌詞によって変わっているんだ"と中学年、高学年くらいになって気づいて、歌詞を聴くようになっていきましたね。入口が歌の表現で、それが歌詞に引っ張られているんだっていうところからでした。
-松本さんって歌謡界で一時代を築き上げてきた方ですし、杏沙子さんの世代でもきっとリアルタイムに、例えばKinKi Kidsなどの曲の歌詞も提供されてますし、幅広い世代にとって馴染みある曲を生み出してきた方ですもんね。
そうですよね。"この曲も!?"みたいな感じで本当にいろんな人の曲を書かれているので、好きなJ-POPの曲を調べて"これも松本さんなのか!"みたいなことが何回もありました。
-松本さんが歌詞を書かれているからっていうので聴き始めた曲もあったりするんですか?
はい。最初は松田聖子さんが始まりだったんですけど、そこから薬師丸(ひろ子)さんとか、太田(裕美)さんとか、いろいろ遡って、はっぴいえんどさんを逆算で知っていくみたいな感じで聴いていました。
-なるほど。では、音楽を聴く側から奏でる側になっていったのはいつ頃からなんですか?
奏でるっていうところで言うと、4歳からピアノはしていたんですけど、ちゃんとしたステージに立ったのは高校の学園祭で。高校には軽音楽部がなかったんですけど、バンドがしたかったんです。それで、学園祭限定で音楽室がライヴ会場として使えるってことで、そのためにバンドを組んだのが初めてでしたね。
-バンドではどのパートをされてたんでしょう? ヴォーカルですか?
最初は先輩に誘われてピアノとコーラスで入ってたんですけど、1曲だけリード・ヴォーカルをさせてもらいました。
-どんな曲をされてたんですか?
いきものがかりさんがそのときすごく好きで「コイスルオトメ」っていう曲をやりました。
-やっぱりポップスが好きなんですね。
そうですね。当時はCDをレンタルショップに行って借りるのが本当に幸せでした。"今月はこれを借りよう"みたいな感じでJ-POPばっかり借りてましたね。
-その頃から将来は音楽をしようって思ってましたか?
はい。歌うっていうのは小学生のときからずっと好きだったんで、小学校中学年くらいのときには歌手になりたいって思ってました。でも、全然誰にも言ってなくて、曲を作れるとも思っていなくて、ただ歌う人になりたいっていう。
-でも、ピアノをしていたり、吹奏楽部だったり、楽器もできるわけで。
いや、楽器全然できませんよ(笑)。ピアノも遥か昔の話で弾けるかどうかわかりませんし、吹奏楽でトランペットをやってたんですけど、ずっと補欠で(笑)。
-そんなに大所帯な吹奏楽部だったんですね。
鳥取県では1位になるくらいの厳しめな吹奏楽部だったんで、やってましたけど、全然才能がなくて(笑)。でも、そういうピアノとか、トランペットとかをやっていたことで歌に繋がることもいくつかあったので、やってて良かったなとは思います。
-そうなんですね。というのも、楽器ができてバンドをやってて、バンドという選択肢もあったけど、シンガー・ソングライターという道を選んだのはなんでなんだろうって。
なるほど。それは今もバンドがやりたいというか(笑)、バンドさんと対バンすると、"バンドがやりたい人生だった~"とか言ってたりするんですけど。結局今思うのはひとりだと大変なこともあるけど、そのぶん好き勝手できるから、シンガー・ソングライターで良かったなと。意識してシンガー・ソングライターじゃなきゃだめっていうところではなかったです。
-まず、とにかく歌が好きで、歌いたいっていう。
そうです。とにかく歌いたいっていうのが先にありましたね。
-じゃあ、先ほどおっしゃっていた楽器をやっていたことによって歌に生きているものとは?
吹奏楽部で初めて音を合わせるっていうことをして。"縦を合わせる"とか吹奏楽部に入らないとわからないことだったので、それが今ライヴでバンド・メンバーと合わせるときに、熱量を合わせながら音で会話することに生きていると思います。あと、私の考えなんですけど、楽器ってごまかしが効かないからその音の単純な美しさをキープするために音の終わり方まで神経を使っていて、それも歌に通ずるというか、楽器から学びましたね。
-たしかに杏沙子さんの歌からもその意識の細やかさは感じられます。それで、曲を作り始めたのにはどういうきっかけがあったんですか?
大学のときにアカペラ・サークルに入っていて、そのアカペラのグループでちっちゃいライヴハウスに出てたんですけど、そのハコの方に"ひとりで出てみなよ"って言われたのがきっかけで、"じゃあひとりで出るし、曲でも作ってみようかな"というのが最初でした。
-それが2016年に発表した「道」ですね。そこからシンガー・ソングライターとして活動していくと。
その「道」も記念に作ってみようかくらいの気持ちで、なんならその1曲で終わるくらいに思ってたので、今こうしてほぼすべてひとりで書いてアルバム作ってるのが不思議です(笑)。そこから月に1回くらいライヴをするようになって、そのライヴごとに新曲を増やしていくっていう自分の中のノルマを作って、だんだん曲を増やしていきました。
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